ためしに医学生や開業医、医学雑誌の編集者らに、フッ素化について何を知っているか質問してみるとよい。きっと彼らからは、「フッ素は虫歯を予防し骨を強くするが、過剰になれば斑状歯や骨の硬化を引き起こす」という程度の答えしか返ってこまい。
おそらくこんな所が、医学関係者がフッ素問題に対して有している知識の全てだろう。というのも、フッ素問題などが、医科大学や医学雑誌で議論される機会は殆どといってよいくらいないからである。
元アメリカ医師会会長であったエルマー・ヘス博士は、1955年8月9日づけの私への手紙のなかで、この間の事情を次のように述べている。
「我々アメリカ医師会の会員の大多数は、この問題に関する根拠は、アメリカ歯科医師会や公衆衛生局が提出した科学的事実に頼らざるをえないと感じているでしょうし、私自身も、これが安全か危険かという事については意見を表明する事ができません。」
アメリカ医師会雑誌の編集者ですら、フッ素化の医学面については、会員である医師からの相談に困難を覚えているようであり、臨床医学には何の経験もない歯科医師の言説に依拠する場合が少なくない。例えば1961年6月に、D・J・ギャラガンとJ・Lバーニェル両博士は、フッ素に関連する皮膚疾患について相談を受けた(1)。
彼らは元来、フッ素化と気温との関係を研究していた人たちであり、アレルギーや皮膚疾患の臨床には何の素養もない人たちである。1955年に起こったオレゴン州でのマーチン氏対レイノルズ・メタルとの訴訟で、被告側(訳者注:レイノルズメタル)は、イギリスのドナルド・ハンター医師を〔特別弁護人として〕専門家の証言のために委嘱しなければならなかった。
当時のアメリカには、フッ素症を熟知した医師が1人もいなかったからである。後の1974年に、E・H・スミス二世歯科医師はアメリカ医師会雑誌に論説を執筆したが、そのなかで彼は、政治的に保健官僚に任命された元公衆衛生局衛生課長のルーサー・テリーの言葉を引用して彼の言説を権威づけるより仕方がなかった。それは次のようなものであった。「フッ素化は医学的に、どの年令の者にも全て安全であり、その利益は生涯にわたって永続する(2) 。」
フッ素化開始以来30年もの間、医師や歯科医師がこの害毒について殆ど知らないできたる理由は何か。重要な研究を意図的に除外することからくる知識の欠如と、フッ素化の推進者が、フッ素の障害性を巧みに隠蔽した事とが複合して、こんな事態を招いているのである。
フッ素化を否定するような発見を打ち消す
我々は第13章と14章で、公衆衛生局が、フッ素が腫瘍の発育を促進させるというテーラーの研究をどのように誹謗中傷し、また、どのようにして、ダウン症とフッ素との関連性に関するラパポートの研究が、公衆衛生局の官僚の陰口によって打ち消されたかを見てきた。テーラーやラパポートのその後の報告は、最初の結論 を敷衍したものだが、そのために今では殆ど言及されることがない。
もし、1950年代の中頃に、私のフッ素化飲料水による中毒の報告が正当に受け取られたなら、フッ素化は必ずや見直しの必要に迫られただろう。
ドイツの保健官僚であり、ヨーロッパにおけるフッ素化の最も熱烈な推進者であるハインリッヒ・ホルヌングの1955年の訪米は、賛成派が私の研究を誹謗する絶好の機会を与えた。彼は「研究旅行」と称するアメリカ国内の旅行の間に、デトロイトの私の診療所や自宅で、私のフッ素中毒症例を勉強するためと称して私にちがづき、私とともに相当な期間を過ごした。無念にも私は後で気付いたのであるが、彼は私の仕事をおとしめる、そのタネを探しに私の記録を調べたのである。それはちょうど� ��ディーンやアンダーボントが、テーラーの研究のアラ探しをするために彼を訪ねたのと同じである。
ドイツに帰った直後、ホルヌングはF・S・マッケイに手紙を書いたが、マッケイはそれを1956年12月のアメリカ歯科医師会雑誌に掲載すべく手配した。その直後からこの記事はニュースとなって広く流布した。
ホルヌングの手紙を読む者は、誰しもが、如何に私を貶めるためとはいえ、こんな噂を寄せ集めたような一方的な雑文をアメリカ歯科医師会が採用したことにびっくりするだろう。この手紙の癇高い調子は、冒頭の1行からして次のとおりである。
「1956年の1月2日号のニューリーダー誌上で、私はフッ素化に反対するジェームス・ローティの馬鹿げた記事を読まされた。」
ホルヌングの手� ��は、全文抑制のない偏見で充満している。以下、代表的な4例を選んでおく。
「フッ素化の疑問に関して言えば,ウォルドボットの理由は、常に感情的な偏見で汚れている.」
「ウォルドボット博士の患者に対する質問は、それに肯定的に答えらるのは皆無のようにできており、すべてが誘導質問により予めある示唆を作り出しているものである。慢性中毒の70例では、これがフッ素化で生じたと主張しているが、そんなものはありもしなかったものである。」
「アメリカ歯科医師会や公衆衛生行政当局が、『ウォルドボットは、フッ素化によって慢性中毒を起こしたという自己の考えを示す証拠は、何1つ提出していない』と言っているのは全く正しい。従って、歯科医師会や行政は、フッ素 化の計画を速やかに推進すべきである。」
「こんな非科学的な宣伝文句でフッ素化を拒否している都市の住民は、本当に気の毒というものだ。」(3) .
ホルヌングの手紙には「レッド・ヘァリング」(訳者注:red herring・・いきなり無関係のことを持ち出して論の主旨を脇にそらせる技術をいう)というレトリットが頻繁に顔を出す。例えば、彼は暗黙のうちに、「フッ素化は共産主義者の謀略だ」という説を否定する。そして、「我々はそんな議論をしているのではない」などと言いながら、いつの間にか私をその説に結び付け、私に対する攻撃を如何にも尤もらしく飾るのである。(参照:脚注18−1)
しかし、この手紙の最も邪悪な部分は、うわべを通信に見せかけて、フッ素中毒に関する私の「70症例」を誹謗中傷した部分であろう。いわばホルヌングの急所ともいうべきこの観察や要約や結論は、ただ単に虚偽でしかないとしかいいようのないものであるが、それが虚偽であることは、彼が私を訪� �た時に交わした会話からも明らかである。
彼は「ウォルドボットは、この症例を科学的に研究する必要性などは感じていなかった」と述べ、これらは「誘導質問」で充満したアンケートで作り上げられたのに過ぎない」と書いている。また、「これらの質問に対する回答者たち(大部分は熟年の女性)の答えの中に肯定的なものがもし1つでもあれば、これはフッ素化水による中毒の証拠として記録されたのだ」とも書いている。これらの熟年の女性(実際は、彼が言及した14人のうちの6人は男性である)について証言しようとながら、彼は、許可もなしに、私の患者の記録を、文脈を全部無視して勝手に引用し、 愚弄しているにすぎない。
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訳者による脚注18−1:フッ素化が共産主義者の陰謀だとする説は、早くからアメリカの一部で唱えられていたらしい。これには、ソ連のスターリンが強制収容所において囚人の精神を遅鈍化し、愚民化するためにそこの飲料水にフッ化ナトリウムを添加したという事実があるため、若干の根拠がないとはいえないが、このためにフッ素化の反対運動の早期のグループには、ジョン・バーチ協会員や3K団などのアメリカの極右政治勢力があった、というのも事実のようである。*3
推進側はこの奇禍を逆手にとった。「フッ素賛成派によれば、声高にフッ素反対を叫ぶ者は,殆どがこうした過激団体のメンバーであり、たとえ彼らが合法的に科学者としての資格証明を手にしていても、彼らは感情的、幻想的、非科学的、欺瞞的人物にすぎない」*1というバカバカしい宣伝が行われていた所以である.
フッ素論争は、末端にいたると、科学とはまるで縁もゆかりもない感情的な言葉がいたずらに白兵戦を演じているのは、この論争について学位論文を書き、その後も一部始終を観察しつづけているエドワード・グロス三世*2が指摘しているとおりであろう。しかし、時代は確実に進歩している。今ではフッ素化に賛成するアメリカの歯科ジャーナリストでさえ、次のように認 識している。「フッ素化反対運動には、右翼ばかりか左翼にも支持者がおり、特に環境保護に関心の強い団体によって支持されている。支持が広がるにつれて、自治体のフッ素化はその基盤を失うかもしれない」*1。フッ素化支持一色に塗りつぶされているアメリカの中央政府のなかでも,環境庁(EPA)の職員が だけがフッ素化による公害に強い危惧を抱き、警告を発している所以である。
参考文献:*1 村上 徹:プリニウスの迷信・績文堂・1989
*2 BRIAN MARTIN:The Scientific Knowlede In Controversy・State
University of New York Press, Albany・1991
*3 フッ素化の真の狙い:フッ素研究・第19号2頁−25 頁・1999
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ホルヌングはドイツへの帰途、「70症例の症状は不適切であり、そのアンケートには『誘導質問』が含まれていた」ということにしようと思いついたらしい。その後、彼は、私のアンケート表の質問事項をドイツ語に翻訳したが、それは私がスクリーニングとして稀には使うことがあったものの、初診の際には全く使わなかったものである。
再度繰り返しておく。彼は、私の表にはない「慢性皮膚発疹」だの「胃炎および肝臓のとくに夏期における萎縮」などという事項を捏造した。そして、塩素や塩素化(フッ素やフッ素化ではない)に関する彼のアンケートに対する回答を50項目も並べたてた。この回答を彼は公表しなかったが、 私の仕事が全部虚偽(「存在もしていなっかった」)であるという彼の中傷は、この捏造した彼のアンケートに基づいたものなのであり、そんなものは、多分、常軌を逸した人間でなければできるものではない。
ホルヌングは、私が彼に何回も繰り返して語ったことには、1度も言及していない。フッ素中毒症の症状は、全て、フッ素化水の使用を止めれば消失し、再開すればまた出現する(4)。これらの科学的事実は、これまでに公表した私の多数の論文には既に記述ずみであってここで再説する必要はあるまい。ホルヌングもこの事実は十分に承知していたはずであるが、彼はこれには1度も言及していないのだ。
もし、アメリカ歯科医師会が、ホルヌングのこの奇怪な手紙を公表する前に私と接触する労を惜しまな� �ったなら、歯科医師会がこんな事をした目的が、私の仕事を中傷するためだったという非難がこれからの同会の歴史に常に付いてまわるという災難を背負い込まずに済んだものをと思う。
これを知った直後、私の心中に湧き起こったのは、仮にも[ヒポクラテスの誓いとして]真実の追求を誓った科学者の仲間が、こんなバカげたやり口で私を誹謗することなどが一体あるのかという、一種の驚愕と落胆である。私がアメリカ歯科医師会に対して名誉棄損の訴訟を起こしたとき、歯科医師会は私の手紙を公表したが,そのなかで私は、慢性フッ素中毒や「予備的なオリエンテーションやスクリーニングのために使用した」(5) 質問表についてかなり詳しく記述した。また、フッ素によって起こるテタニー様痙攣(少年)の新しい症例(6) についても触れ、結論をこう述べた。「私の研究は、標準的な水中フッ素濃度や1日あたりのフッ素摂取量が、誰にも安全であるとは言えないということを証明している(5)。」
私の手紙の後につけたコメントで、この雑誌の編集者は、アメリカ歯科医師会は科学的事実によって混乱させられるのは望まないと述べ、次のように書いている。「ウォルドボット博士の手紙を公表したからといって、本誌は、フッ素化に好意的な科学的証拠が圧倒的に多いという意見を変更するものではない。」
歯科医師会は、私の手紙を雑誌に掲載しても、ホルヌングのあからさまな虚偽に対しては何の対抗手段もとらなかった。そればかりか、一般のメディアは医学界のニュースメディアと同様にこの作り話をいたる所で宣伝し(7)� �アメリカの主要な医学雑誌から私を閉め出した。込み入った事情があることを了解していないこれらの雑誌の編集者を、一体誰が非難できただろう。
1958年の11月4日に、私はノーベル賞受賞者ヒューゴー・セオレル博士のご好意で、ストックホルムのウェーデン医師会で私のフッ素中毒に関する症例を発表した時、ウェーデンにおけるフッ素化の指導的な提唱者であったインベ・エリクソンは、ホルヌングの手紙をたてに私を中傷しようとした(8)。1961年9月、雑誌「栄養学レヴィユー」の編集者は私の仕事について遠回しながら次のように述べた。「彼〔ウォルドボット〕が、誘導質問を含むアンケートからフッ素症の多数の兆候をつかんだということは、到る所で書かれてきた(9)。」1970年になっても、マックルーアはまだ次のよ うに述べているのである。「ホルヌングは、その時までは〔まさかウォルドボットがそんな事まではしないだろうと〕不明確なまま否定されていた印象を、とうとう不朽なものにしたのである(10)。」
ホルヌング事件は、なぜ医師や歯科医師が私のフッ素中毒の報告を無視するのかという理由の露骨な1例にすぎない。
疼痛管理センターのサンドイッチ
アメリカ歯科医師会がフッ素の害作用に関する真実を抑圧しているという事実をはっきりさせるため、私は次の事実をあげておく。
1958年のアメリカ歯科医師会の「補助剤によるフッ素療法協議会」より発刊された報告書は、飲料水フッ素化は普及と費用の点で、フッ素補助剤の個人的投与よりすぐれていると主張している(11)。我々は既に、様々の科学的証拠がこの結論とは逆であることを見てきた。 この証拠はアメリカ歯科医師会にも知らされてきていた。歯科医師であり研究者であったR・フェルトマンは、アメリカ歯科医師会に対して次のように指摘している。「私はフッ素補助剤の効果について過去10年ほど研究してきました。その間、協議会 は私と連絡を取り合ってきていましたのでこの研究については承知しているはずであり、知らなかったと抗弁することはできますまい。」
彼は、彼が観察した子供に対するフッ素補助剤の多数の害作用を中心に述べ、その鋭い批判を次のように結論した。
協議会のステートメントは、フッ素溶液の使用の際に、フッ素化された各家庭の水道水から摂取されるフッ素量については考慮していない。そのため私は、地域の水道をフッ素化することには再度同じ反対を表明せざるをえません。それは、つまり、飲料水の摂取量は人によって極めて多様であるということであり、そこから来るフッ素摂取量が、どれが正しく、どれが過剰でどれが不足か決定することは不可能であるという事なのであります(13)。
広範な研究に基づいたこの鋭い言明にもかかわらず、アメリカ歯科医師会はフッ素化を「安全かつ効果的」だとして推進しつづけてきた。じつに明白なフェルトマンの知見には少しも言及する事なしにである(参照:脚注18−2)。
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訳者による脚注18−2:ここに明記されたホルヌングの手紙に起因するウォルドボットの受難は、フッ素論争が、如何に多くの不快にして不幸スキャンダルを起こしてきたかを明示してあまりがある。この事件以来、ウォルドボットの医師としての赫々たる名声は深く傷つけられ、フッ素化水による中毒などはありえぬ事としてフッ素応用が推進されてきた事態は今なおそのままである。こんなスキャンダルに、仮にも 学術団体であるアメリカ歯科医師会が関与したことを、歯科医師として私は深く悲しむ。
しかし、今日ではウォルドボットの名誉は十分に回復したといってよい。アメリカ化学学会の機関誌である「ケミカル&エンジニャリング・ニュース」*1は、この事件について次のように論評している(1988年8月1日号,pp 26 〜42)。
アメリカ歯科医師会と公衆衛生局は、フッ素化が健康に被害をおよぼすという内容の研究に対して、研究そのものか著者の人格かを攻撃することによって水をさそうと、一生懸命になっている。(略)その1例に,故ジョージ・L・ウォルドボットに対するデマをあげることができる。(略)アメリカ歯科医師会は、彼の医学研究の妥当性を中傷する記事を広くバラ撒いたのであった。
アメリカ歯科医師会は、そのキャンペーンを、大部分西独の保健官僚ハインリッヒ・ホルヌングの書簡にもとづいて行った。その書簡は(略)根拠のない誹謗を多数寄せ集めたものであった。
アメリカ歯科医師会はホルヌングの書簡を1956年に機関誌に掲載して、ニュースとして広くバラ撒いた。のちに同歯科 医師会は、この書簡に対するウォルドボットの反論を掲載したが、世界中にバラまかれた最初のニュースを訂正することはせず、様々な場所で公刊しつづけた。1985年にもなって、まだこのニュースは引用されつづけている。ウォルドボットを政治的に攻撃して「反フッ素主義者」として描き出し、そのために、広い範囲の医師や科学者が彼の業績を無視しつづけているのである。(村上 徹訳)*2
この記事はアメリカの知識人に衝撃を与えたと同時にマスコミの注意を強く引き、各紙は筆を揃えて当局を非難した。「フッ素化政策は悪質な科学を育てた」という高級紙ザ・クリスチャン・サイエンス・モニターの見出しがこの反応を端的に物語っている.*3
参考文献
*1 Bette Hileman ・ Fluoridation of Water・Chemical & Engineering News, pp
26 -42, August 1 1998 .
*2 村上 徹・プリニウスの迷信・荒れ狂うフッ素論争・ , pp 68-70 ・績文堂・19
98.
*3 村上 徹・アメリカ化学学会が発表したフッ素論争に関する特別報告について。 フッ素研究 No 10,pp 12 , 1989 .
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フッ素の毒性を報告した論文を抑圧する別の手段
1956年にウイスコンシン州のオーソーで、医師がフッ素中毒の情報に接するのを妨害された事があった。
J・W・P夫人は、主治医の助言に従いフッ素化水を調理や飲用に使用することを中止したお蔭で、長く続いた腹部の痙攣や下痢からやっと開放されたばかりであった。同年3月24日に、彼女は2人の男の訪問を受けた。1人はアンティゴー付近の地方紙の「編集者」を装い、彼女が主治医の勧めによって病気から開放された経緯を世間に知らせるのに同意してサインするよう説得した。その後、今度は主治医であった医師が5人の訪問を受け、彼女の症例については、たとえその相手が医師仲間であ� ��ても話をするなと脅された。この患者は、その後デトロイトの病院で私の治療を受けることになり、数人の医師による診察の結果、フッ素中毒症という診断が確認されたのである。
別の医師も、フッ素化水による中毒の患者を診察した際、沈黙を強いられるような目にあわされた。1955年に、ニューヨーク市のニューヨーク大学歯学部の臨床教授であったウィリアム・ウルフ氏は、近郊のフッ素化地区の水道水による中毒と思われる4人の患者を診察した。診断に間違いがないことを確かめた後、彼は同僚たちにフッ素化水は体に悪いという話をした。するとその次の日に、学部長が彼を呼び、大学で彼が不要になったことを通告したのである。
ウルフ教授が対抗手段をとるためにその理由を公開するように求めると、その件� ��即座に中止になったが、彼はこれで非常に困った立場に追い込まれ、とうとう論文からその症例を削除したのであった(14)。
インディアナ州エバンスビルの近くにあるテルシティという町で、別の医師がフッ素化水による中毒患者を診察した。1957年6月に、デトロイトで、私はR・J・ミラー博士の患者3人(H・S夫人,A・M夫人,S・A・夫人)について研究する機会があり、慎重な検査の結果診断を確定した。関節とくに脊椎の異常、筋の緊張性の疼痛や手足のシビレ、胃腸の不快症状、口腔の潰瘍、網膜の初期の病変による視覚のボヤケ、皮膚の発疹などの兆候が、テルシティのフッ素化水の使用を中止すると急速に消失したのである。ミラー医師はこの事実を医師仲間に知らせ、地域住民にニュースを通じて注意を呼� �かけようとしたが、中傷やイヤガラセが甚だしく、そのため彼はその町にいられなくなり、別な場所で開業せざるをえなくなった。
歯科医師の団体が、他の場所でも一貫してフッ素化水の為害性に関する情報を抑圧しようとしていることは全く疑いがない。デトロイト近郊で発行されているある新聞の広告担当係は、デトロイト歯科医師会フッ素化陳情委員会の法律顧問という弁護士の署名のある手紙を受け取った。その手紙の一節は次のとおりであった。
彼ら〔フッ素化反対者〕は、この手段〔訳者注:フッ素化〕は有害かつ危険であるという全く支持され難い主張をしておりますが、これらの前提は、これまでに十分に行われてきた基礎的研究に反しており、何の証拠もないものであります。我々はこういった説明を貴職を利用して広めてゆくために、広告を出すことを考えております・・。
この手紙は、貴職が水の汚染と闘うと言ったような間違った主張をとりあげ、大衆を騙しミスリードする煽情的なキャンペーンを行わぬよう訴えるために書いたものです。我々は貴職が、地域住民の責任ある一員として又新聞人の一員として、マスコミの潜在力とこの件の真実を守るための厳粛なる責任を認識して頂くことを希望するものです(15)。
地方紙や全国� ��なメディアを操縦するために、この他にもどれだけの、経済的なものを含めた圧力が加えられたか、誰が知っていよう。これも医師や公衆にフッ素の害毒を知らせずにおく、もう1つのやり口なのである。
か
医師や歯科医師に加えられた圧力
歯科界のリーダーたちは、仲間の歯科医師がフッ素反対に回るのを未然に防ぐべく「アメリカ歯科医師会倫理規範」を1950年11月に制定したが,これは憲法上の権利である「言論の自由」を弱めようとする試みに他ならない。
第20条。公衆の教育。歯科医師は、以下の条件を満たす場合、歯学に関連した分野における公衆の教育を目的とする計画にかかわる事を許可される。つまり、それらの計画が歯科医師としての尊厳を傷つけるようなものでなく、� �らに歯科医師会の適切な機関を通じてそれを遂行する事を、地域および州歯科医師会が是認している場合である。
もし、歯科医師が、科学的証拠によって説得を受けることが不可能ならば、その時はアメリカ歯科医師会が、非難という苦痛の下に、フッ素の是認を規則で決めるのである。倫理規範を守るためにだ!
こんな事にもかかわらず、フッ素化反対者はアメリカ歯科医師会会員のなかにも広がってきた。しかし、異端に対する報復の恐怖が固く口を閉ざさせる。1955年に新聞通信員ジョージ・ソコルスキーは、アメリカ歯科医師会雑誌に対するステートメントのなかでこの恐怖を次のようにあばいている。
私は、私がこれまでにインタビューしてきた貴会会員の多数の人達が、この方法〔フッ素化〕に賛成と反対が同じように分かれている事を知っております。しかし、同時に、反対者たちが、名前を知られることを恐れながら暮らしていることも知っているのです。もし、これらの人たちの名前を私が新聞で明らかにすれば、彼らは〔倫理委員会に〕引っ張り出されるだろうと言っております(16)。
異論に対するこの公然たる禁止は、さすがに1966年3月には削除されたが、それでも歯科医師は、彼らの「見解が会や地域の歯科医師の多数の意見と異なっている」(17)場合には、実際に、その見解を、多数の歯科医師の意見を代表するものだと主張しないよう警告を受けた。
予想どおりとはいえ、フッ素化反� �を口に出した歯科医師は、歯科界からの組織的に復讐されるのを感じている。例えば1955年に、R・プリングル博士とD・H・アーウィン博士は、フッ素化に執拗に反対したために、ノースカロライナ歯科医師会から一時的に会員資格を停止された(18)。1961年には、マサチュオセッツ州ワーセスターのマックス・ジン博士が、フッ素化反対の陳情書の提出の中止を拒否したため、州歯科医師会から除名された。
その陳情書は1953年に回覧され出したもので、ワーセスターでのフッ素化に反対する119名の歯科医師と59名の医師の名前が掲載されており(19)、地域歯科医師会あげてのフッ素賛成の態度を破棄するように求めていた。彼は1962年6月に、アメリカ歯科医師会裁定委員会に対する抗議が成功して復帰したが(20)、同年11月に同歯科医� �会代議員会は投票でジン博士の除名を議決した(21)。1969年にミネソタ州ダラスのI・H・ノースフィルド博士は、フッ素化に異論を唱えた咎で、地域歯科医師会から1年間の会員資格停止を受けた(22)。
1959年、ペンシルヴァニア州アレンタウンの歯科医師U・L・モンテレワン博士は、フッ素化に対する批判を外部で行ったためにレイ・バレイ歯科医師会に出頭させられた。1969年に、彼は再度フッ素化に反対したが、その時には残酷なイジメに遭遇した。「私のこれ迄の歯科医師生活のなかで、こんな野蛮な振舞いや愚弄、嘲笑、罵倒に出会ったことは1度としてなかった。私はビャーマン先生と一緒に、ただ我慢し通した。」(23)
こんな露骨なやり口は最初のうちだけであった〔訳者注:後ではもっと陰険なも のになってゆくという意味〕。フッ素推進派が敗北したあとの1971年2月2日、モンテレワン博士は、アレンタウン(ペンシルヴァニア州)病院を本拠とする障害児協会が経営する口蓋裂診療所の職を追われた。「これは明らかに復讐的な行為であり、民主主義社会では受け入れることができないものである」(24)と、フッ素化そのものは支持していた地方紙でさえ、論説で激しくこの措置を非難した。モンテレワン博士の罪とは一体何だったのか。
彼は個人的に、フッ素化されていたペンシルヴァニア州イーストンの低所得層7群の児童24人を検査していた。この子供たちの歯は重度の虫歯におかされており、そのうえ「33.3%が斑状歯であった(25)」。彼は科学者として、フッ素化地域における実際の所見を報告したのであった� �、この偽らざる真実は、彼の職という犠牲を要求した。
歯科医師会や推進派がこのような圧力を行使している時に、歯科医師がどうして本心を語るだろうか。最初の場所で洗脳されずに来た人たちは、こんな場合には、直ちに、固く口を閉ざすのが最も安全だと悟るだろう。この本の出版時点では、荒れ狂っているとしか言い様のないキャンペーンが猖獗しているカンサス州ウィチタで、何故あからさまにフッ素に反対する歯科医師が1人もいないのかは、この圧力があます所なく説明していよう。また、フッ素化が実施されかかっているテキサス州ヒーストンで、何故これに反対する歯科医師がいないのかは、やはりここにも、迫害と復讐の恐怖が支配しているからに他ならない。
グループの一員でいることの保証や、病� ��への照会等様々な特典を喪失する恐怖と同様に、復讐、社会的追放、失職などに対する恐怖こそが、歯科医師がフッ素化反対を口外しない明白な理由なのであって、自由な言論が侵すべからざる権利として喧伝される民主共和国においてこの有様である。
フッ素化を推進している歯科医師らは、地域の医師会に対しても、このようなイヤガラセや脅迫を採用するよう繰り返し迫ってきた。例えば、H・F・コッペ医学博士を指導者とする7人の医師グループ(これに8人の歯科医師が参加)は、1955年7月にオハイオ州デイトン市の委員会にフッ素化の実施延期の陳情を行ったあとで、モンゴメリー郡医師会の役員会に譴責のために呼び出された(26)。それは地域の歯科医師の要請によるものであった。医師会は医師に対し� ��は何らの措置も構じなかったが、8人の歯科医師に対しては強い圧力がかかったのに違いない、と私は推測している。
フロリダ州セント・ピータースバーグでは、44人の医師が市役所に対して、アメリカ医師会がフッ素化について見直しをする迄、フッ素化を延期するよう申し入れた。当時、推進派は、「フッ素化に公然と反対する全ての医師に対して、医師会が問責を加える決議を可決することに成功」していたのであった。しかし、1958年2月4日に、市当局は医師たちの助言によってこれを延期し、結局は1959年12月15日に行われた住民投票で中止となった(27)。
ゼノンにきびクリアデバイスのレビュー
私自身も個人的に似たようなイヤガラセを経験した。私が医師仲間に、フッ素化の危険性を警告する手紙を配付した直後に、デトロイト歯科医師会は、私が所属する医師会の委員会に対して、私を問責するようにと要請してきたのである。その委員会のメンバーの2人が私に語った所によると、もう1人のメンバーだったR・ジョンソン博士は、この問題に対して公明正大に対処して、次のように述べたという。「もし、我々の医師会のある会員が我々の知らない問題について知識を有しているとする。そして、その者が我々の注意を促さないとしたら・・、それこそ問責の対象となるだろう。」この件は、その後消え去った。
もう一つの復讐< /span>
しかし、フッ素化に異論を抱く医師や科学者や保健衛生の専門家らは、私のように幸運だった者ばかりではない。アルバータ州カルガリーのゴールドン・ベーテス博士は、カナダのフッ素化推進派の指導的人物であったが、保健衛生の医務技官であったW・H・ヒル博士にフッ素化支持を命令した。「さもないと、どんな事になるのか」。その直後に、ヒル博士はアルバータ大学医学部の診察担当評議員を免職された。そのポストに彼は25年間も就いていたのである。ある石油会社の高級技師であったC・R・トップソン氏は、ヒル博士を支持し、公然とフッ素化に反対したため退職させられた。その後しばらく、彼は別の就職口を探すことができなかった(28)。
科学雑誌の編集者に対する同様な行為は、科学情報の自由� �流れを妨げるという点でより深刻な脅威となる。オハイオ州コロンバスでアレルギーの専門家として著名なジョナサン・フォーマン医学博士は、25年以上にもわたってオハイオ州医師会雑誌の編集者をしていた。その彼が外部に向かってフッ素化批判をしたばかりに、地域、国の両レベルの歯科医師から個人的なイヤガラセを受け、結局、1958年に、編集から身を引く事を要求された(29)。
医学や歯学以外の科学雑誌の編集者でさえ、公衆衛生局による懲罰的行為の対象になった.アメリカ化学学会の1部局であるケミカル・アブストラクツ・サービス(CAS)(訳者注:CASは世界最大の化学データ・バンクの1つ)の副編集長であったジョン・イアムイアニス博士が、フッ素化に反対する言動を繰り返したところ、公 衆衛生局歯科保健部の広報担当官であったジョン・スモール氏が、最初は電話で、その後は手紙で2回にわたってCASに接触してきた。
1970年8月10日、CASの編集長であったR・J・ロベルト2世氏は、スモール氏に次のような返事を送った。「私はイアムイアニス博士とは何回も話合い、私の立場をできるだけ強く打ち出しました。彼はこの種類の言動を2度と繰り返さないでしょうし、CAS職員として留まることになると思います。(30)」
翌日彼は、もう1度イアムイアニス博士と話をし、彼に関するメモを集めた個人的なファイルを取り出した。そこには次のように書かれていた.
私は彼に,「我々はもうこれ以上,彼のフッ素化に関する信念と、組織としてのCASやその編集者としての関係に我慢� ��きない」という話をした。私はこう言った。「もし、私がもう1度、彼の言動とCASとの関係を認めれば、私は30日以内に彼を退職させなければならなくなる。もし8月10日以降に、彼が講演や手紙や論文などでフッ素化批判をすれば、どうなるかという事を説明した。続いて私は、イアムイアニスの名前はフッ素化問題で既にCASと結びついてしまっており、CASに特に言及することがなくても、これを結びつけたHEW(訳者注:健康・教育・福祉省)なしには、もはや彼は、この問題について言ったり書いたりすることはできまい。・・彼は今後もこうした論争を続けるのか、それともCASで仕事を続けるのか、決断しなければならない(31)。
ワシントン(公衆衛生局)の援助を維持するために� �、CASは社員の言論の自由すら抑圧するのであり、イアムイアニス氏は退職する迄こうしたイヤガラセに耐えねばならなかった。この訴訟はまだ続いており未解決である(32)。
誹謗文書
迫害やイヤガラセを受けた科学者で、その後もフッ素化に反対し続けた者の数はそう多くはない。敢えて反対し続けた者のうえに何が起こったかは今までに見てきたとおりであるが、勿論それが全てではない。最もショッキングなのは、声をあげてフッ素化に反対する者の人格が誹謗中傷された事である。公衆衛生局の歯科保健部と結託してアメリカ歯科医師会広報部は、フッ素化反対者に関するコメントをコピーして広くバラ撒いた(33)。この手口は、アメリカ歯科医師会の1953年のフッ素化推進方針に引き継がれた(15章を参� �)
。
1962年と65年に、こうした文書は、「フッ素化の実施を考慮もしくは計画中又はこの実施に従事している人およびグループの利用のために、フッ素化反対者として最も有名な人物の背後関係、資格、活動ぶり等に関して情報を供与する」ため、アメリカ歯科医師会の手で発表された(34)。ここにはフッ素化反対者として何らかの影響を有する医師、歯科医師、科学者、市民らの名前がずらりと並べられ、否定的で間違った解説までが加えられていた。アメリカ歯科医師会は、引用した資料の明らかな間違いを追放する事については少しの情熱も持合わせていないようである。
そのごく少数例を見ただけでも、歯科医師会がフッ素化反対者の信用を破壊しようとしていることは明らかである。アイオネル・ラパポート博士の 水中のフッ素とダウン症の研究に関する事例は第13章で述べたが、彼の場合、その発見は、原著のデータが検討されたあげく否定されたのではなかった。
テーベスは、20年後の今日になって、過去に逆上る研究があることを力説している(35)。しかし、アメリカ歯科医師会の文書で行われたラパポート批判は、「ダーティ」ジャーナリズムの深部にまで浸透したのである。彼らは1963年5月31日に、マデソンのウイスコンシン大学のフィリップ・P・コーエン博士の手による「論文として発表されざる」反論で、ニューヨーク州ウチカの保健部に対し、ラパポートおよび彼の業績に対する批判を要求したのであった。それは次のようなものであった。
私はラパポート博士が、彼のデータで有意だと述べている解釈を全く信用してお� �ません。数年前のレビューに際して、彼は、〔ダウン症児〕の母親が実際にどれだけの量のフッ素に曝露されていたのかについては、本当の事は何も知らないと認めていました。彼は良き訓練を受けた科学者ではありません。彼は入手した材料を有名な雑誌に発表することはできないでいたのですし、国立衛生研究所に要請した援助も断わられておりました。私は、ラパポート博士のこの間違ったデータに基づいた何の保証もない論文が、この大学の研究水準の低さを反映しているのを残念に思います。しかし、私は、彼の結論が事実無根であり・・(36).
この空虚で侮蔑的なコメントはウチカのフッ素推進派をいたく喜ばせたが、しかし、この非難がもし正当なら、何故コーエン博士はもっと学問的に、ラパポートの「何の� ��証もない論文」を雑誌で論じて他の科学者の警告としなかったのだろうか。ラパポートの「結論が事実無根である」という事こそ、〔彼の論文では〕行政の記録がデータになっているという事実に背反する。
もし、ラパポートが「良き訓練を受けた科学者」でないのなら、なぜ彼は、パリの人類学大学院で内分泌学の講師をしていられたのか。なぜ彼の研究が認められ、1950年にフランス医学賞を受賞したのか。なぜ1954年に、保健団体からシバリエ賞を授与されたのか。なぜウイスコンシン大学の精神科学研究所研究プロジェクトの準教授に招聘され、助教授になったのか。
既に見てきたように(第13章)、ラパポートはパリ大学で医学博士の学位を受け、ダウン症に関する研究をフランスの「著名な雑誌」に発表したのであ� ��て、合衆国で行ったのではない。彼が国立衛生研究所から研究費の助成を得られなかったという事こそ、公衆衛生局が(現在もなお)好んで資金を注ぎ込んでいるフッ素研究などが、じつは当局によって厳重にコントロールされているものなのを明白に示しているのである。言うまでもなく、ダウン症の発生と母親が飲用していた水のフッ素濃度との強い相関性はこの上もなく重要なテーマであり、慎重かつ徹底的な実証のための資金援助に値する。このように考えると、コーエン博士が書いたものこそ、ラパポートに対する事実無根の中傷であるのが分るだろう。
国際的にも著名な、ニューヨーク州ブロンクスの退役軍人病院ガン研究部のルドウィック・グロス博士の言葉の力を弱めるために、アメリカ歯科医師会は、彼に関す� ��公衆衛生局からの「公表されざるメモ」を作成した。グロス博士は次のように述べていた。「フッ素には、ごく少量を摂取しただけでも潜行的な為害性と、蓄積性の毒作用があるという明白なる事実は、幾らフッ素した水道が安全であると何回繰り返し書かれようと変りはしない。」これについて公衆衛生局は次のように言う.
彼もまた、飲料水の消費量は人によって非常にバラツキがあり、フッ素の安全幅は狭く、大都市における[給水]技術の問題が困難であるという理由によってフッ素化に反対している。しかし、グロス博士を雇っている退役軍人部の見解はこうである。「グロス博士がどこで何を言おうとそれは自由だ。しかし、彼は、当部のフッ素化問題に関する見解を述べているのではない。この役所はフッ� ��化には反対していない」(37)。
読者はこの意見が、何の目的のために表明されたのかよく考えて頂きたい。研究情報の深部にまで届くようにと、アメリカ歯科医師会は、指導的な歯学研究者であったV・O・ハーム博士を、ミズーリ大学医学紀要に書いた論文を引用することで攻撃した。
歯学博士V・O・ハーム氏は、マサチュオセッツ州ボストンにある小児の歯科治療専門のフォーサイス歯科病院の研究担当理事である。彼は「フッ素化の科学的基盤の検討」という論文と、一般むけに書かれた水道フッ素化の妥当性を疑う多数の文章の著者である。彼の論文には、フッ素化が危険であり無効であるという証拠は何も載っていない。彼の論文を読んだ者は、次の2点を確信するだろう。
a)〔フッ素化が安 全かつ有効であるという〕具体的な証拠を提出している夥しい文献を、その個所が疑わしいと述べるだけで総括できないでおり、
b)「集団投薬」とか「強制」という用語を使用することで感情的な偏見を表している。これは彼の客観性について疑問を投げかけるものだ(37)。
デービット・アスト博士が引用したミズーリからのコメントというハーム氏への反論のなかで、ニューヨーク州保健部は又別の見解を示している。アストの権威からすれば、その証拠が何であれハームを黙らせるくらいは訳ないものであり・・、こうして読者は確信へと誘導されてゆく!
私の場合でも、J・ロイ・ドティ博士の言明(2つの新聞記事と裁判における)によって、長期間の特別待遇を有り難くも頂戴した。無礼なあてこすりや� ��違い、誹謗中傷などによる「批判」。しかも、そのある部分は、これらの不当性を私が明らかにするまでは、アメリカ歯科医師会が無言のうちに認めていたものである(38)。
しかし、ドティ博士のこの言明は、白日の下に晒されなければならない。まず最初に、(著者は認めていないが)、コックス、マックルーア、ラッセル(39)などの論文の抜粋によって成立っている一節である。そこでは彼らは、2点について議論しているのであるが、それを私は多分間違いであろうと推測した。その1点は、リスマンとマックマレイによって報告された22歳の兵士の死が、「飲料水中の天然フッ素のせいである」とした所である。
既に第9章で見てきたように、リスマンとマックマレイは、この患者の健康に深刻な影響を及ぼした慢� ��フッ素中毒に関心を有しており、私は患者が飲用してきた水中のフッ素による死亡を示すデータからそのように推察した。アメリカ歯科医師会の議論で言及された別の解釈は、「おそらく、胸骨の生検が細菌の侵入門戸となって起こった局所的炎症に由来する膿腎症であろう」というものであるが、これは極めて説明困難である。
もう1点の批判は、F・F・ヘイロスの論文が、腎炎患者は非フッ素化水を飲用するよう言っていたかどうかに焦点をあてたものである。しかし、これは単なる強弁でしかない。というのも、ヘイロスは次のように明白に主張していたからである.「このような疾病を発見した医師は、患者に対して非フッ素化水を使用するように助言すべきである」(40).アメリカ歯科医師会は、ドティが私の言明を� �全く間違いである」と書くのに暗黙の同意を与えていたのだ。!
フッ素化問題には「論争の余地がない」?
医師らがフッ素化の副作用について何も知らないのは、その他にも訳がある。医学のうえで何か新しい発見があったときには、伝統的に、その利点と欠点について、国、州、地域レベルの様々な医学会や雑誌などで論議になるのが普通である。例えば、ポリオに対してワクチンが導入されたのは最初が1930年代、次が1950年代であるが、この問題は多くの医学会でその利点と欠点について全く自由に論議された。これとは全く対照的に、アメリカ歯科医師会も公衆衛生局も、フッ素化の科学については、長期間にわたる研究がなかった頃から「論争の余地がない」と言ってきた。
1961年4月のサンフ ランシスコにおける第91回カリフォルニア州歯科医師会年次大会において、アメリカ歯科医師会会長C・H・パットン博士は、聴衆である歯科医師に向かい、極めて情熱的に次のように語った。「私は申し上げておきます。フッ素化問題には論争の余地などありません」(41)。1965年にアメリカ歯科医師会常務理事のH・ハイレンブランド博士は、南カリフォルニア歯科医師会総会の後の記者会見で、「水道フッ素化の問題には、科学的に論争の余地などは全くありません」(42)と述べた。その翌年、当時のアメリカ歯科医師会会長M・K・ハイン博士は、ヴァージニア州アーリントンにおける全米歯科保健大会で、「フッ素化問題には、科学の世界でも論争の余地などなく、政治の世界でもその必要性がないものです」と演説した(43)。1965年の カンサス大学におけるシグマ・グサイ科学会主催の総会でのパネル・ディスカッションに出席を招請されたマックルーアは、「フッ素化の科学的利益に関しては、論争点など認めることができない」という理由で参加を断わった(44)。
スプリングブランチ医療センターの減量プログラム
もし、この問題が「論争の余地がない」ものなら、有害である証拠など取り上げられなくなるのは自然であろう。ノース・ダコタ州ビスマークにおける地方医学会で予定されいた私の発表は、その地方の保健官僚の介入で阻止された。その学会は1963年11月3日の会議に私を招待し、飲料水によるフッ素中毒に関する私の講演を聴く予定であった。しかし、10月18日に、私の招待はこの問題の性質が「論争的」であることを理由に取り消しになった。後で私は、最初に招待を準備した医師からその理由を聴かされたが、それによると、この取り消しにはその地方の保健官僚がからんでいたという。私の話を聴くことは、「論争の余地がない」のが間� �いだと認めることになるからだろう。
歴史的にも、こんな態度は非科学的だといわねばならない。ある指導的なフッ素化賛成者でさえ「科学的疑問で永久に閉ざされたものなどはない」ことを、しぶしぶ認めているからである(46)。
有害作用の発見の否定
医学雑誌の編集者らは、繰り返し繰り返しフッ素化に疑問を呈するような研究を否定してきた。大抵の医師らと同様、彼らのフッ素化についての知見は乏しいのが一般的であり、このため、これに精通していると思われる公衆衛生局の代表者(編集委員に名をつらねている)の方を向くのである。かくして、公衆衛生局の歯科保健部の仕事師たちは、フッ素の医歯学面を操作し、雑誌の死命を制するのである。
私は25年以上にもわたってフッ素研究� ��従事してきており、この方面の経験は膨大である。1例をあげれば、アメリカ医師会雑誌の「読者からの手紙」の担当編集者は、オハイオ州デイトンのアレルギー専門家J・J・シー医師とデトロイトのS・M・ギレスピー医師と私との連名による、どの開業医にも興味のある「フッ素入りのドロップによって起こった5歳児の胃腸出血」を報告した手紙を受領した。この手紙を公表しようとした編集者の1人は、この事実により、雑誌の論説が変更されるべきだと考えた。ところが、この記事は、印刷に廻す段階になってから、編集長J・H・タルボット氏のデスクでボツになったのである。尤も、その中のデータだけは、後になってアレルギー年次報告書(47)に掲載されたのであるが。
タルボット氏は、1961年8月8日に、私に次� ��ような返事をよこしている。
「私は、アメリカ医師会代議員会や食品・栄養委員会の決定に反する〔フッ素およびフッ素化に関する〕見解を公表しようとするつもりはありません。」
別の大きな医学雑誌の編集者も、コネチカット州スタンフォードのD・H・フォーゲル博士のフッ素化に関する学問的な見解を雑誌に掲載するのを1964年9月17日に断わった時に、こういう場合の標準的な表現で次のように言ってきた。「この論文を発表することは、白熱した感情的な論争にさらに油をそそぐことになるでしょう。」エモリー大学の科学者たちも、アメリカ医師会雑誌から同様な返事を受け取った(参照:第19章)(48)。その科学者のうちの1人は、「アメリカの科学が、何故このようなバカげた行為を許しているのか全く理解で� �ない」と感想を述べている。
1973年にはサイエンスの編集者が、フッ素化水の為害性を示したV・A・セチリオーニと私との共著論文の掲載を拒否した。この仕事の一部分をなしている予備的な報告は、カーチスつまり皮膚科学の専門雑誌から、その年に掲載された最高の論文であるとして第1回の賞を受けたものであった。サイエンスが断わった表面上の理由はこうであった。「'チゾールの紫斑'(第10章で説明した皮膚の発疹)の原型は、アメリカやイギリスの皮膚科医らには何の印象も与えないと思われます。少なくともこれは、ウイルキンソンとエブリング第2版その他の現行の教科書には載っておりません。」
これは途方もないコメントだと言わなければならない。論文として初めて報告するような研究が、� ��もそも教科書などにのっている筈がないではないか!
科学における検閲の例として最もひどいのが、アメリカ歯科医師会雑誌の場合である。1960年代の中頃に、アルバート・シェッツ博士は、チリーにおける人工的フッ素化と死亡率の上昇との関係を研究していた。彼は1965年に、順番に3つの要請状(返戻,受領,要求)をこの雑誌の編集者であるリーランド・ヘンダーショット博士に送り、その中でフッ素化の驚くべき結果について議論した。この3つの手紙は、いずれも開封されないまま受け取り拒否で戻ってきた。換言すれば、ヘンダーショットは、アメリカ歯科医師会のため、ストレプトマイシンの共同発見者であるシェッツ博士の発見に関す手紙を、開封する労さえとらず否定した事になる。科学の検閲でこれ� �り破廉恥なものも少ないだろう(49)。
全米学術会議
歴史は屡々繰り返し、時には同じような人物が同じような役目を担う。ごく最近の1977年に、全米学術会議(National Academy of Science ・NAS)は、全米研究推進協議会(NRC)の「飲料水安全委員会」のD・R・テーベス博士の報告書を公刊した。彼がフッ素化の弁護人であり、公衆衛生局からの資金を度々供与されてきた人物であることは先に述べたとおりであるが、フッ素に関する部分の最初の執筆者に選ばれた。バランスをとるための反対側の専門家による証拠は一切採用されなかった。
1970年代に、この報告書に満載された問題点の偏りに関心が高まり摩擦が生じた後、NRCはこの委員会の仕事の総点検を行った。同会議の総裁であったフィリップ・ハンドラー博士は、NRCの広範囲にわたる組織再建を誇って次のように言明した。
私は、偏見や摩擦が発生する原因に配慮して厳格な計画を実施した。すべて公的な立場にある者は、委員会のサービスを得る者が関係する問題の外に置かれ、その者との相談、研究資金の供給、経済的関係、それより得る地位等とはあくまで一線を画することとなる。我々は食言する事を好まない。
この言明と、ハンドラー博士の環境衛生政策に対する深い関心の中で質問したい。そこでは真の討論を行うべきなのに、なぜフッ素化の賛成者だけが「特殊イオンに関する飲料水安全委員会」に招聘され、これに反対する科学者が1人もいなかったのか。さらに指摘する。なぜ、国際的にもフッ素化のシンパとして知られた人だけが執筆者に選ばれ、この極めて論争的なフッ素の部分で最終的な判断を行っているのである� ��。
露骨な偏りを見せる「特殊イオンに関する小委員会」は極めて深刻な問題であるが、それ以上に、この報告書に対してなされた無数の批判に、一切耳をかさないのは許しがたい。この報告書の最初の草案が各方面のコメントのために回覧され、概要報告書である「飲料水と健康」が表れると、多くの批判がハンドラー博士のもとに殺到した。そしてそれらはNRCの飲料水安全委員会に転送された。
そうした批判の1例をあげれば、1977年7月8日に、A・W・バーグスターラー博士は、シングルスペースで5頁以上もの長い手紙を書き、この発表されたばかりの概要報告書のフッ素の部分の深刻な欠陥や間違いを指摘した。この批判が無回答のままで終わると、彼は1977年8月16日に、さらにシングルスペースで5頁半にわ� ��る長い別の手紙を書き、多くの深刻な〔データの〕除外や解釈の間違い、誤った結論などについて議論した。
1977年8月22日に、私もハンドラー博士に宛ててシングルスペースで3頁の手紙を出し、私が治療したフッ素中毒患者400症例以上もの結果について説明した。その中で私は次のように述べた。「貴方の報告書(草案)は、単に、私のこの疾患に関する初期の研究(1962年)と、フッ素入りのビタミン剤と歯磨剤によるアレルギーを扱った1967年の論文 にだけ言及しているに過ぎません.」
私はその手紙に、1962年〜67年にかけて行ったフッ素に関する私の研究リストの一部と、フッ素の発ガン性の問題に関する論文とを同封した。私は検査データと同様に臨床試験においてもどのようにして二重目かくし法を使用してきたか、また、私の患者が、単にフッ素の入っていない水に変えただけで如何にして病気から回復したかを強調した。
それと同時に、私は、この報告書の説得力を弱めている多くの証拠について触れ、率直に「この報告書のフッ素の部分は、根本的な見直しをしなければ救いようがない」ものであると感想を述べた。そしてさらに、「このままでは、これは全米学術会議の名声を傷つけるものになる」とまで切言したのである。
この他にも、こうした科学的� ��ータに基づいた内外からの批判がハンドラー博士のもとに多数殺到した(57)。しかし、ハンドラー、テーベス両博士ばかりか飲料水安全委員会や中立的な部外の委員会も、これらの批判を否定できる何らの証拠も提出しえなかった。その代わりに、ハンドラー博士は1977年10月16日に私に宛てて次のような最終的な手紙をよこした。
フッ素の作用のような非常に複雑な科学的な問題に関しては、意見の相違は不可欠のものです。この現在の報告書は、これに精通した委員会の考えうる限りでの最良の判断であり、全米学術会議の報告書として公表されたものであります。
フッ素の為害性を示した私の科学的証拠はすべて簡単に無視され、信憑性のないその他もろもろという海の中に湮滅されてしまったのである。
� ��ハンドラーのバーグスターラーに対する返事は、期せずして内情を暴露しており、その点では興味がある。彼は、この報告の「明文化」された内容はNRC委員会の責任であり、その理由から、バーグスターラーの手紙は委員会の議長に転送されたのだという。その時は報告書はゲラの段階であったが、彼は「前例を破って(58)」決定版の出版を遅らせた。その理由は「委員会の執筆者らが、貴職(訳者注:バーグスターラー)のコメントを再検討することができるようするため」(59)だという。
この原稿が出版前に改変されたのは疑いがない。しかし、バーグスターラーに対する返事では完全に否定的である。「報告書の内容を吟味するために貴職のコメントを再検討しましたが、その後でも委員会の配置に何の移動もなかった以上� ��我々はこれを出版する準備を予定どおり進めてゆくだけです」(59)。
それ以外の手紙も、この論争的な問題で合意をうることの困難を示すものばかりであった。「フッ素の為害性を主張する説には格別の注意が払われたが、その可能性は立証されていないものばかりであった」〔太字原書〕。
報告書はフッ素に関連する先天的奇形や発ガン性、死亡率などの領域については更なる研究を要請しているが、バーグスターラーによって言及されたフッ素の為害性を示す既存の事実は一切無視したのである。そればかりか、カナダ国立研究評議会(60)がNRC環境研究委員会のエドワード・グロス博士の検討のために1977年の夏に送付したこれと全く矛盾する報告書にも、何一つ注意を向けなかったのである.
再度繰り返 すが、ハンドラー博士の手紙の結論は、「この現在の報告書は、これに精通した委員会の考えうる限りでの最良の判断であり・・」(59)というものであった。ハンドラー博士には、多数の科学者によって欠陥が指摘され、手厳しく批判されたこの報告書のフッ素の部分を破棄するか再検討する機会があったのであるが、そうする代わりに、彼は委員会の意見をそのまま採用することを決定した。その意見とは、飽く迄たった1人の委員の意見にすぎず、部外の客観的な人達によってチェックされる事なしにきたものなのだ。
私はここでこの報告書の深刻な欠陥を全て数え上げるつもりはないが、これが除外しようとした適切な証拠について、短い感想を述べることだけはしておかなければならない。そうすれば、そこから国民の誰し� �が、健康にとって極めて重要な情報を引き出す事ができるからである。
このフッ素の部分の執筆者は、「フッ素化水を飲用しても何の害もない」という彼の結論を否定するデータを、文書や口頭(電話や面談)で十分に知らされてきた。これらの証拠については、ガンから始まって、染色体障害、ダウン症、胃腸症状や可逆的な害作用などの全身的不耐性に至る考察で触れられているが、フッ素による腎障害では、初期のデータからある特殊な点だけが強調されている。
1977年1月28日に、バーグスターラーはテーベスに手紙を書き、来るデンバーでのAAASの「フッ素応用の連続的評価」というシンポジウムについて言及した。そして、彼は、「なぜ主催者は、発言者に、最新のデータをもっているS・L・マノカ博士(ヤ� �ケス・プライメート・研究センター)のような人を加えようとしないのか」と質問した。
テーベスがカンサス州ローレンスを1977年3月8日に訪れた時、H・L・マッキンネイ博士はバーグスターラーと一緒に、「なぜ、フッ素化水(1および5ppm )(61)を投与されたリスザルに腎障害が起こるのを示したマノカ博士の仕事が、人間にも関係すると理解してはいけないのか」と質問した。テーベスは、その論文をまだ読んでいない事を認めたが、その実験は恐らく間違いであり、多分にリスザルを飼っていたカゴ付近の気温が高く、サルがフッ素化水を多量に飲み過ぎた結果なのでないかという意見を述べた。
1977年8月16日のハンドラーに宛てた手紙で、バーグスターラーはマノカ論文に言及し、同年9月12日に、再びテーベスに手紙を書いて次のように言った。
18か月の実験期間の最後の10か月では、「水の消費量はフッ素濃度の高い水(1ppm と5ppm)を投与された実験群の方が、非フッ素化水群よりもやや多量」であった。さらに腎臓は、「明らかな細胞化学的な病変を示し、特に5ppm 投与群で著明であった。」同時に酵素の活性が認められた.(原著論文は括弧書き)
1977年8月のこの訪問の間に議論された様々な問題は、NRC報告の決定版のフッ素の部分で論じられている。1977年11月14日にテーベスは、「マノカ研究に使用されたサルは、3群に別けて3つのカゴで飼育されるより別々のカゴで飼育されるべきであった」という主張をした。これが腎機能にどのように影響するのか不明であるが、この最後のデータ(62)によっても、テーベスがマノカの研究についてはよく知っていないのが分かるだろう。
腎障害に関する長大な議論(とくに,否定不可能なマノカ論文に記されたような)にもかかわらず、NRC報告は「研究の勧奨」が方向づけられつつある事を示唆する。即ち、第8項において、「マノカらによるヒト以外の霊長類に関する研究(1975年)は、報告された腎臓の酵素の変化をチエックするために、5ppm水とより適切なコントロールによる実験が繰り返して行われるべきである」(35)と述べているのである。それならば、なぜマノカらの既に発表された研究が、この報告書の腎機能に関するフッ素の作用の所で議論されなかったのだろうか。端的にいえば、なぜNRC報告は、フッ素化に打撃を与えるような多くの証拠を意図的に除外したのか。それらは皆、この報告書のフッ素� �部分の著者の注意を引くべき重要な科学的証拠なのである。なぜ、慢性中毒の可逆的なフッ素の作用が軽く扱われ、バーグスターラーおよびマッキンネイとテーベスとの激しい議論(3月8日,1977年)にもかかわらず、これが否定されたのであろうか。その議論の中で両者は、テーベスに対して、このタイプの症例について個人的な知見を提出したのである。 テーベスに対して合理的な説明を求める多数の要求は、いまだに回答されないままである。私は、ロチェスターの看護婦の例を見ても、証拠が失われるという事は、歴史は繰返すという格言の傍証を提供しているのではあるまいかという思いにかられる。
このエピソードとその周辺の出来事には、まことに腹立たしい思いを禁じえない。偏見を禁じる倫理規定に違反して� ��全米学術会議は、NRC飲料水安全委員会の小委員会が、フッ素の安全性に関する一方的な報告書を提出するのを容認した。この文書の執筆者はフッ素化の指導的な推進者であるD・R・テーベス博士であり、既に知られているフッ素の害作用を過少化し、論文による決定的な証拠を除外した。無数の科学的な批判のなかで、この事実をよく知る研究者は、テーベスとNRCの2つの名を長く銘記するでだろう。 事実に対する適切な言明を述べるバランスある報告書を求めるための批判は、全てが無駄になったのだ。合衆国におけるこの最も権威ある学術団体が、フッ素化の作用に関する全ての重要なデータを網羅した客観的な報告書を準備する事ができないのであれば、科学者がこの件について何も知らないでいるのに少しの不思議� �あるまい。
フッ素による障害を過小評価しようとする別の試み
ロチェスターの看護婦の例と飲料水安全委員会の報告書とは、何故、医学関係者がフッ素化による為害作用を認めないのかをよく説明していよう。言うまでもなく、これらの論文の著者らによる言明は、フッ素化水による障害を最小に見せかけようとしているのである。
例えば、1967年に、M・C・レーサムとP・グレックは、タンザニアのある地方では、水中のフッ素濃度が1〜3ppm という低濃度でありながら重度の歯牙フッ素症や重度の爪の異常、痛風、骨フッ素症などの発生率が高いという事実を報告したが、合衆国の公衆衛生学雑誌に発表された彼らの論文には、25行にもわたってフッ素化でそうした事が起こるおそれの否定と、次のような示唆とが付け加えられていた。「この調査で被検者に発見された骨粗鬆症は、おそらく、次の見解を支持するものであろう。即ち、これより少量のフッ素が永年摂取されれば、老齢の被検者には骨粗鬆症を減らすなど有益な効果が見られたに違いない」(63)。
1965年にJ・W・モリスは、天然フッ素を含有する水を飲用していたアリゾナ・インディアンの進んだ骨フッ素症20例を記述した際に、骨フッ素症には「何らの生理的障害も認められない」と述べたが、この言� �は、進展した骨の病変(64)や、他の研究者のデータばかりか、彼自身の論文中の明白な自然骨折のデータとも全く矛盾しているのである。1972年にミネソタ州のメイヨ・クリニックの医師らは、全身的フッ素症と飲料水中のフッ素に関連する腎機能の障害をもった十代の患者2例について報告した。そのうちの1例は0.4〜2.6ppm で起こり、他の1例は1.7ppm であった(65)。正常に機能しない腎臓を有しているこれらのフッ素化地区の患者を詳述する代わりに、著者らは論文の冒頭から、読者をミスリードする次のような無関係なコメントを付け加えている。「水道フッ素化が、正常な腎臓を有する者に対して安全であることは、広く一致した見解である。」言うでもなく、この論文で議論されている2人の患者は、正常ではない腎臓を有していたのである。
もっとひどい矛盾が国立疾病管理センターの報告の中に見られる。これはノースカロライナ州スタンリー郡の田舎の学校の事故によるフッ素中毒事件(非致命的)に関するものである。1974年4月16日に、生徒201人と大人12人が過剰にフッ素添加された水が入ったオレンジジュースを飲んだため発病し、嘔吐などを起こした(第7章を参 照)。これを報告した文書は、この病気がフッ素添加装置の故障によるものであったのは認めたものの、この傷害の深刻さについては少しも触れていない。
ノルウェー中毒センターにおけるフッ素錠とフッ素の局所応用による34症例は、フッ素とは無関係なものとして片づけられた。その根拠となったのは、そのうちの2例について行われたごくアヤフヤな試験である。その原因が、臨床データ(66)によって既に確証されていたにもかかわらずである。
これらの例が物語っているのは、いずれもフッ素化に不利となるような結果が、何の為害性もないという言葉で表現される場合が非常に多いということだ。こんな矛盾した言明から、どうして医師が真実を抽出することが期待できようか。
実験の反復
フ� ��素の論文には、それ以外にもまだおかしな特徴がある。その1つに、多くの場合が実験結果を再確認するためにもう1度実験を繰返すようにと批判され、そんなふうにして繰返された実験の結論が前のものと正反対になっている、ということである。例えば1957年に、ラムスヤー、スミス、マッケイの3人は、動物が死ぬまでフッ素に曝露され続けた実験について報告し、その結論を次のように述べている。「フッ化ナトリウムを投与されていたラットのうち老齢のものは、歯牙欠損や歯周病に罹患する頻度が高く、とくに高濃度(5および10ppm )の場合にはより顕著であった。」「尿細管の肥厚や増殖がフッ素投与(飲料水中,1,5,10ppm )を受けていたラットに認められたが、投与されていなかったラットには認められなかった」(67)。このような結果は、明らかにフッ素化の理論を支持していないが、この研究は、マッケイとE・B・ボスワースによって再実験にかけられた。そしてその論文では、腎臓に対するフッ素の蓄積的な作用は全く見られなかったと報告されているのである。「腎臓には広範囲にわたる変化が認められたが、私たちの解釈では、このような変化は、この年令のラットではどれでも起こると考えられる。(68)」
同様なやり方で、ヘルマンは、腎臓結石中に高濃度のフッ素を認めた後で、公衆衛生局から、資金と2人の共同研究者の提供を受けてもう1度研究をやり直し、医学専門家や世間に向かって、このフッ素濃度は高いものではあるが何の� ��もないものだと述べた(70)。一体、科学者はどっちの研究を信じたらよいのであろうか。果して、「最近」の研究が「最良」あるいは「最適」だといえるのだろうか。
国際フッ素研究学会(ISFR)
1960年頃になると、内外の医師や科学者は、フッ素について自由に議論ができる学会の必要性を痛感するようになってきた。そんな経緯があって、ベルン大学(スイス)薬理学教室のゴルドノフ教授と、ローマのイーストマン歯学研究所のA・ベナギアーノ、S・フィオレンチーニ両教授と私の4人で国際学会を設立した。我々は、フッ素化に関する立場は度外視して、目ざましい活躍を見せている多数の科学者に参加を要請した。接触を求めてきた誰もが強い興味を示した。そこでローマのジョージ・イーストマ� ��歯科大学でこの学会を開催することにした。
その大学は、ヨーロッパにおいて一流の歯学研究が行われている機関である。しかし、残念なことに、開催予定日のごく間近になって、イタリアの科学者らは学会をキャンセルしてきた。その理由は不明である。私は代案としてオランダでの開催を計画したが、それもキャンセルさせられた。
ゴルドノフ教授の懸命なる努力のお蔭で、我々は1962年10月15日〜17日にベルンで学会を開催することが可能になった。参加者の殆どがフッ素に関するオリジナルの研究を発表し、60人の参加者の誰もが、この領域における自分以外の指導的立場の研究者らと自由に情報や意見を交換できる機会を持てた事に非常な満足を表明した。そこで発表された論文や議論は、1963年7月に発刊すること にした(参照:脚注18−3)。
しかし、この論文集を出版する業者は、「これを出したら将来の仕事がなくなるぞ」と脅されたのだ。その時はちょうどゲラ校正の最中であった。私が補佐して専ら編集にあたっていたのはゴルドノフ教授であったが、彼はこの事情をこう説明した。「私にはその名前が明かされていないのですが、ある人物が出版社と接触し、もし、この本を出すような事があれば、今後その社をボイコットすると脅したのです。そのため出版社は、この本から手を引きたいと言ってきたのです(71)。」費用も返金された(72)。しかし、別のヨーロッパの会社が、翌年この論文集を出版したのであった(73)。
このベルンの学会での成功を見て、我々は国際フッ素研究学会(ISFR)を� �立した。1966年に、ISFRの先駆けとして、我々はアメリカ・フッ素学会をデトロイトで開催した。そこにはアメリカばかりかヨーロッパやアジアからも参加者が集まった。この学会の性格は厳格に科学的なものとしたが、公衆衛生局やアメリカ歯科医師会の役員らは、これはデトロイトにおけるフッ素化推進運動の脅威であると短絡的に受け取った。学会の前日に、アメリカ歯科医師会は、マスコミに向けて極めて批判的な声明を発表した (74)。何ひとつ学会のプログラムを見ることもなしにである。サイエンスの記者は、それとなく、AAAS(全米科学推進協議会)に加盟もしていない未熟な団体が「科学学会」などと称する資格があるのかという事まで筆にした(75)のである。こんな卑劣な攻撃にもかかわらず、ISFRは1968年以来、規則的に1年に1回開催されてきている。
訳者による脚注18−3:この学会に早くから参加し、後に会長をつとめた角田文男教授(岩手医大・医・衛生公衆衛生学)は、学会設立当初の若々しい興奮を次のように回顧している。「1968年の〔ウォルドボット博士からの参加を勧めた〕手紙には、ISFRの目的はフッ素の生物学的影響に関する研究の振興と知識の普及とにあり、(略)と記されていた。
この案内は、当時、自分の地域の環境問題として、わが国では未知のフッ素による大気汚染問題を抱えて、孤軍奮闘していた私にとって、極めて新鮮で深い共感を呼ぶ力強いものがあった。孤独な研究分野に携わっていると思いこんでいた者が、思いがけない多数の頼もしい同学の士に出会った時のあの興奮である(略)。(角田文男・第14� ��国際フッ素研究学会を終えて・フッ素研究・No.7 ・PP.14-19・1986)
この学会と雑誌「フルオライド」の寄与により、フッ素に関し特に生物学と医学とが著しく進歩した。いかなる場合でもこの学会は、フッ素化の政治に関与することはなかった。この問題や空気や水の汚染に関するフッ素の役割についての会員らの意見は極めて多様である。生化学者、医師、歯科医師、獣医学者、植物学者、物理学者、化学者、エンジニアなどの人達が、地球上のあらゆる所からこの学会に参加してくるのである
。
それなのに、フッ素化の推進者らはこの研究者の集会を妨害してきた。例えば、かつてこの学会や雑誌で論文を発表した合衆国の研究者が、何人も、以前には強い興味を見せていたのに理由も告げず突然退会するのである。ある科学者は、6年間もフッ素の基礎的研究に従事してこの領域を開拓してきたのであったが、ある時私に、「公衆衛生局の研究資金との関係で、この研究所でこれ以上フッ素研究を続行することは許されなくなりました」と通知してきた。彼は、この学会が、彼のフッ素研究の続行を許すような職場を探すのを援助してくれるかどうか問い合わせてきたのである。別の研究者の場合、彼は学会で発表することを予定していたのであったが、率直な知らせによると、研究資金を供与していた公衆衛生局が参加を許可� ��ないということであった(参照:脚注18−4)。.
訳者による脚注18−4 :このようなボイコットが科学の世界で行われる事など言語道断であるが、残念ながら、日本でも、この学会が初めて開催された時に行われた。脚注18−4 で引用した角田教授は同文に次のように記録している。
「何を勘違いしていたのか、本学会の日本開催を快く思わない一部の方々から、事前に国内歯科大学の予防歯科や口腔衛生学の教室に学会参加ボイコットの働きかけがかなり執拗になされた(略)。」
同教授は、さらに、日本フッ素研究会の創立者柳沢文徳名誉教授を偲んで次のように書いている。「私の交友関係には、フッ素の歯科利用に積極的な歯学部の教授も少なからず居ることを承知され、私が〔日本フッ素研究会に〕入会することにより彼等が私の研究実績に偏見を持つようになってはと〔柳沢名誉教授が〕懸念されたようである。そのような懸念は研究者間では杞憂と思われたが、事実、後年(1985年)になって、私が盛岡で国際フッ素研究学会を主催したと� �、執拗なボイコット行為にでた歯科系大学の研究室が現れたりして、研究者間にあるまじき料簡に大いに驚かされた。(角田文男・柳沢先生と私と学会・フッ素研究No.11・柳沢文徳名誉教授追悼号・pp.33-34・1990)
この学会の機関誌である「フルオライド」こそ、フッ素研究のあらゆる領域をカヴァーする真の百科事典である。それなのに、フッ素研究文献の一大供給源であり、公衆衛生局傘下の国立医学図書館が出版しているインデックス・メディクスは、この雑誌を目録に含めることを拒否しつづけているのである。しかし、イグザープタ・メディカやバイオロジカル・アブストラクツ、ケミカル・アブストラクツ、ポルーション・アブストラクツ、オセアニック・アブストラクツ、カレント・コンテンツ、サイエンス・サイテーション・インデックスなどのデータ・バンクは、すべてがこの「フルオライド」を内容に加えている。 この雑誌が世界で唯一のフッ素研究の専門誌であり、フッ素と人間の健康に関してはより学術価値の低い雑誌で� ��らがインデックス・メディクスに含められていることをを思うと、国立医学図書館がなぜこれを加えないでいるのかは、理解に苦しむとしか言いようがない(76)(参照:脚注18−5)。
訳者による脚注18−5:この現状は、1994年現在も一向に変わっていない。日本の研究者の中には、メデイクス・インデックスを絶対視して、フッ素を有害とする文献がインデックスの中に乏しいことを理由に有害説に疑念を表する者もいるが、医学界では権威ありとされるこのデータ・バンクも、このような政治に左右されている現状は理解しておかなければならない。
「フルオライド」を追放して真先に得られる効果はといえば、医師や歯科医師など公衆の健康にたずさわる人々から、フッ素と生き物の健康に関する様々な情報を奪い取ってしまうことであろう。次の例をその事実をよく物語っている。1978年5月3日に、オハイオ州シンシナティの合衆国環境保護庁副長官ジェームス・B・ルーカス博士が、かつて私が研究したことがあるオハイオ州の空中フッ素による中毒について手紙をよこし、「フルオライド」のコピーの恵与を要請してきたことがある。彼はこの雑誌を全く見たこともなく、「地方の図書館はこれを購入していないのです」というのが理由であった。
かつてブタ・インフルエンザのワクチン接種のキャンペーンに際して、公衆衛生局は、国や州、地方レベルのあ� ��ゆる機関を動員した。大衆の生命がまさに危機に瀕しようとした時、わが合衆国の保健官僚たちは、盲滅法に情報をバラ撒いたのである。しかし、それならば、なぜ彼らはこれ迄2年以上も、医師や歯科医師、保健官僚たちが精通していなければならない重要な情報を含むこの国際雑誌を、インデックスに登載するのを固く拒みつづけているのだろうか。なぜ、公衆衛生局は、健康の名のもとに、このような愚民政策を推進し続けているのだろうか。
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なぜ、大多数の科学者や市民らが、フッ素化の危険性について無知でいるのか。その答えの幾つかは本章でわかって頂けた事と思う。勿論、たった1つの答えだけで全てを十分に説明できるものではないが、� ��れでもある点についてだけは明らかになった事と思われる。フッ素化の反対者の大多数が黙っていようとも、科学者や世間は、けして愚かではない。まさにその逆に、彼らはフッ素化の当初から科学的、論理的、道徳的理由をあげて、この蓄積性の毒物を水道に添加することの不可を唱えつづけてきたのである。しかし、その報いは何だったのか。イヤガラセ、苛め、迫害、名声の失墜、研究資金や職業の喪失などではなかったのか。
まとこに悲惨な結論ではあるが、もし公衆衛生局がこのままの態度を保持し続けるのであれば、局が過去に犯した様々の過ちとともに、フッ素化こそ、まさに歴史家の裁きを受けるに違いない。
文献
(引用文献は省略してあります。ご入用な方は訳者までご連絡下さい。)
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